e-books 校 長 室 だ よ り ~都立高校改革とともに歩んだ11年~ 山 田 辰 明 < 目次 > ● まえがき ● 東京都立南平高等学校時代 【昭和60年(1985)1月1日~平成5年(1993)3月31日】 ・ 都立桜町高等学校から都立南平高等学校への異動 ・ 南平高校一期生 ・ 南平高校開設期余話 ・ 南平高校八期生の皆さんへ ・ 進級を機に ● 東京都立大学付属高等学校(定時制)時代 【平成5年(1993)4月1日~平成10年(1998)3月31日】 ・ 都立大学付属高等学校定時制への異動 ・ 3年生原田さん 生活体験発表会に出場 ・ 八雲祭(定時制文化祭)終わる ・ 女性電気工事士に訊く ・ 理性と野性 ・ 定時制高校の将来 ・ 都立大学付属高等学校定時制課程の改革(私)案・東京都教育委員会への提言 ・ バイクと若者たち ・ バリアフリーは万人のため ・ 春の遠足無事終わる ・ 地下鉄サリン事件 ・教室、廊下の窓枠のアルミ化 ・福井県 原子力発電所見学 ・ ヘビ大将との出会い ・ 隕石が落ちてきましたね。 ・「コルチャック先生と子供たち」展見学 ・ 初めての担任 ・ ちょっといい話 ・ 多摩川を源流から河口まで歩きました。 ・ 柿の木坂の八百屋さん考 ・ 恥ずかしながら私の高校時代 ・ 「フータ」飼えば愛犬、行方不明そして交通事故 ・ O-157対応 ・ 海抜0mからの富士山登山 ・ 語り部、佐伯さんと広島 ・ 羨ましき土曜の帰りの電車 ・ 帰宅難民体験、サバイバルウオーク ・ パソコン通信を始めて ・ 駅の工事現場に思う ・ 新体育館が完成しました ・ 「ポンペイの壁画」展見学記 ・ 「心のバランス」を推し量る ● 東京都立町田高等学校時代 【平成10年(1998)4月1日~平成13年(2001)3月31日) ・ 定時制課程四年生:町高H10.4 定時制課程始業式式辞 ・町田高校定時制課程の学校給食 ・ ものを見るとは ・ 映画「タイタニック」を診て ・ 「いただきます」、「ごちそうさま」~この素晴らしい一言~ ・ 恥ずかしながら私の少年時代 ・男女共修の家庭科の実施 : 現状と課題 (都公立高等学校長協会40周年記念誌) ・ 南アルプスを登山:造山帯とは ・ ヒト、このひ弱な生き物よ ・ 都立町田高等学校家政科のと特徴 ・恩田川の水質改善に向けて ・ 学校評価に向けて、よりよい学校への手がかり ・ ある日の事務室の窓口にて ・ 「 親心 」 : 平成10年(2001)12月定時制終業式挨拶 ・ 二十世紀末を迎えて : 平成10年12月、全日制終業式挨拶 ・ 日記のすすめ、新年を迎えて ・ 通勤途上のできごと ・ うさぎ年 : 飛躍の年へ ・ J・ディマジオと少年時代~小学校時代の思い出~ ・ 自家製ママレード ・ 通勤途上に出会う町高生 ・ 足元を見直す:平成11年(2002)3月全日制卒業式 ・ 耳を傾ける:平成11年3月全日制終了式 ・ よい学校にはよい先生が (平成11年4月、定時制課程入学式) ・ 自分探し ・ 都内屈指の規模の町高定時制 ・ 社会人としてのJ・リーガー ・ 携帯電話の使用マナー ・ 全日制創立70周年記念誌に寄せて ・ 町高定時制課程創立五〇周年記念式辞 ・ 続けることは力、諦めない:平成11年12月定時制終業式 ・ 東海村原子炉事故:平成11年12月全日制終業式 ・ 西暦2000年を迎えました ・ スキー教室 ・ 進化:来る21世紀 ・ 阪神淡路大震災から5年 ・ 卒業式・入学式における国旗・国歌の扱い ・ 平成12年3月定時制課程卒業式 「定時制課程の4年間」 ・ 社会の変化と家庭科教育 ・ 充実感 ・ 平成12年4月定時制課程入学式 : 定時制課程の生活 ・ 若者の犯罪 ・ 生涯の友 ・ 家事分担のすすめ:町田高校平成12年7月、全・定 終業式 ・ 戦争体験を語り継ぐ ・ 町田高校文化祭 ・ 教材を自作する楽しみ・喜び ・ 北極圏700kを歩く冒険家・大場満郎と若者たち ・ 校長職、現在の心境 ・ センター試験、2004年度より5教科7科目へ ・「子ども会の表彰」:平成12年12月全日制終業式 ・ 21世紀とものづくり:平成12年12月定時制終業式 ・ 町高・学校評議員制度、開かれた学校 ・「漢方薬」:平成13年3月・町高全日制卒業式 ・ 平成13年3月定時制PTA会報:都立高校改革に向けて ・ 平成13年3月定時制課程卒業式:21世紀初の卒業生 ・ 町高の皆さんへ ● 東京都立田園調布高等学校時代 【平成成13年(2001)4月1日~平成16(2004)年3月31日】 ・ 平成13年4月始業式「若いうちは無理をしろ」 ・ 平成13年4月入学式式辞:本物のエリート ・ 町田高校から田園調布高校へ ・ 大田ろう学校との交流教育 ・ 熊野古道を歩く ・ 田園調布高校同窓会(月日会)のみなさまへ ・ くさ餅とさくら餅 ・ 都立三宅高校生 ・ 六郷用水跡のザリガニ ・ 青春は美化されがち(平成13年一学期終業式) ・ 「校長室だより」の発行 ・ 私の高校時代の修学旅行 ・ 飯豊連邦登山 ・ 田高女子バレー練習試合観戦 ・ 「ぽろにあ祭」ポスター&プログラム ・ 田高進路プロジェクト ・ 家庭科教育に関わる楽しみ ・ 地域とのかかわり(生徒からのメール) ・ 大学の先生による出張講義 ・ 日本学生科学賞 ・ 平成13年度 第二学年・沖縄県修学旅行 (9.11 米国同時多発テロの影響) ・ 校長による授業参観(生徒からの質問メール) ・ 首都圏の大雪 ・ 伸びる日脚 ・ 田園調布高校吹奏楽部定期演奏会 ・ 田園調布高生の「玉手箱」 ・ 学校週五日制の始まり ・ 「沼辺」の駅で(その1、2) ・ 教育はシームレス ・ 35億年+80年 ・ 生徒による学校評価 ・ スポーツ大会から体育祭へ ・ 駅の階段で ・ オーガニック・スクール ・ ムラサキツユクサ ・ 多摩川下流域を歩く ・ 田高の桐と楠 ・ ちびっ子サッカー(校庭開放) ・ ぽろにあ祭を迎えて ・ カラスの衝突 ・ 都立高校第3次再改編案 ・ 無駄な学習? ・ 家庭科とこころの教育 ・ 終戦(敗戦)記念日 ・ プレ「ぽろにあ祭」 ・ U・Y氏 ・ 田高進路プロジェクト ・ 進路選択 ・ ハラハラ・ドキドキ ・ 聖路加国際病院長 日野原 先生 ・ 充実した生活を求めて ・ 「誠実」「敬愛」「自主」の実践 ・ 生徒による授業評価 ・ 元都立大学総長 山住 正己 先生 ・ ベニス合奏団 ・ 日曜日の電車 ・ 田高同窓会のみなさまへ ・ 天国からの手紙 ・ 真似る ・ 51期生の皆さんへ祝・卒業、(卒業式式辞) ・ 古くて新しい課題「自由と責任」 ・ カラヤン ・ 学校評価と田高の成長 ・ 新選抜制度初の54期生を迎える ・ 校内でのできごとその1(自販機の前で) ・ 校内でのできごとその2(放課後の事務室にて) ・ パン屋さんからの訴え ・ ホームページのリニューアル ・ 教育実習生へのエール ・ 理科教育の活性化 ・ 火災を想定した避難訓練 ・ 田高体育祭は冥土の土産 ・ 若手記者と戦争体験 ・ 青春の発露 ・ 一駅前の下車 ・ 見えないものが見える ・ 朝の通勤電車内での憂鬱 ・ 「ゴミゼロ」化に向けて ・ 悩ましい土曜日の朝 ・ 平成15年田高トップニュース ・ 東山魁夷 展 ・ 元日の新聞 ・ 身近な麻薬 ・ 高大連携 ・ 縁 ・ 感謝 ・ あとがき・著者略歴 #
by Yamada_Tatsuaki
| 2012-06-12 17:00
| 高校教育
教員になって10年ほど経た頃、クラスの生徒向けにクラスだよりを出すようにした。 担任からの連絡が伝わらないことがあったことと、生徒同士や担任生徒間の共通の話題になればと思った。 週に1度ほどの割りでクラスのことを中心に、校内のさまざまな情報をB4版のガリ版刷りで配った。そのたびに、生徒の中には又ですかとうんざりする顔もあった。 管理職になり直接生徒と関わる時間は乏しくなった。その分、生徒全員に向けた学校だよりや校長室だよりで補った。細い糸で生徒とかろうじて繋がっていたのではと思う。 たよりはパソコンで作成した。代わり映えしない内容ではあったが、発行回数は、いつの間にか3校併せて200回近くになった。またその間、たより以外に行事の際の講話やPTA広報等への原稿も手元に残るようになり、退職を機にそれらをまとめた。 都庁あげての都立高校改革が始まったのは、教頭職について間もなくのことであった。教員組織のあり方、学校経営計画、学校予算、人事考課、学校評議員制度、主幹制度、異動要項等の改革、導入が大胆に進められた。高校の再改編、新しいタイプの高校づくりも同時に進行した。 5年間の教頭時代(都立大学付属高等学校定時制課程)とそれに続く6年間の校長時代(都立町田高等学校、都立田園調布高等学校)は、文字通り改革とともに歩んだ11年であった。 その間、改革の速さについていくのが精一杯ではあった。しかし改革の目指すもの、内容については、管理職になる前に新設校(都立南平高校)を立ち上げた一員として、腑に落ちるものが多く、自分なりに咀嚼して関わるように努めた。そして改革の動きや見通しについては、生徒や保護者へも必要に応じてたよりや講話を通して伝えるようにした。 現在、改革の全体像についてはその骨格を見ることができるが、中身の充実については今後に待つものが多々ある。一つ一つ丁寧に処していくことが求められている。
平成17年(2005)1月 #
by Yamada_Tatsuaki
| 2012-05-23 10:30
| 高校教育
都立南平高等学校時代
(昭和60年1月1日~平成5年3月31日) 東京都立南平高等学校への異動 昭和60(1985))1月、新たに日野市に開設予定の都立南平高等学校の開設要員として都立桜町高等学校から異動した。 マンネリ化したそれまでの教員生活に決別すべく、もう一歩、自分を変えたいという意欲が、異動を後押ししてくれた。 格好をつけて言わせてもらえば、安楽椅子に座っている(「コンフォートゾーン」)自分がなんだか後ろめたく感じていた。 新設校の予定地は、地図で開設地を見ると通勤時間は1時間30分ほどだが、それは気にならなかった。 それよりゼロから新しい学校を立ち上げる魅力の方が圧倒的に勝っていた。 そしてなにより開設地の自然環境が、私の専門とする地学教育にとって望ましいと思った。 少数教科(理科・地学)の関係から異動は難しいかなと思いながらも、氷雨降る一月の某日、開設準備室(都立松が谷高等学校内) に面接に行った。 面接時の詳細はとっくに忘れてしまったが、沼田開設校長、和田同教頭に会った。 いろいろ聴かれたが率直に自分の気持ちを伝えた。 数日後、教頭から採用するむねの返事をいただいた。不安とともに喜びが湧いてきた。 開設教員は私含めて4名。数学1、社会1、保健体育1と理科(私)の内訳である。私が最年少(39歳)であった。 すべてがゼロからのスタート。なにからなにまで一つ、一つ、議論しながら成案として築き上げた。 私の役割は、生活指導関係の立案。それと地元中学校へのPRである。 この日野地区は、京王線、中央線が東西に貫いているが、新興住宅街はいずれも駅からは遠い。 むろん市立中学校もそれらの周辺にあるから、公共交通の不便さといったらない。 特別の許可を受け、マイカーで全ての中学を訪問した。 南平高校への地域の中学校の期待は、さまざまで、新設を知らない中3生の担任の方もいらした。 チラシを渡しながらPRしたことが懐かしい。 同僚、先輩諸氏とともに新しい学校を立ち上げた経験は、私のその後の教員生活の拠り所となった。 特に生徒、保護者が望む都立高校はどうあるべきか、南平高校在勤中の8年間、常に頭の片隅にあった。 この意識は、南平高校を離れてから退職まで消え去ることはなかった。 〔目次へ戻る〕 #
by Yamada_Tatsuaki
| 2012-05-21 11:18
| 高校教育
南平高校一期生
1985年、昭和60年4月11日、夜半の雨も上がり薄日が差してきた。 調布グリーンホールでの第一回入学式の翌日の今日、待ちに待った一期生の初登校日である。 ここは生徒の登校時刻間近の南平高校プレハブ高幡校舎2階職員室。 窓際の先生方がソワソワしだした。私もその一人。 そうこうするうちに「来た!」、同僚の誰かが思わず声を出した。 一斉に目を外に向ける。すかさず「ウオー」とのどよめきが職員室に起きた。 そう、みんなこの日を待っていた。 潤徳小学校の角を曲がって、次々と紺のスーツ、エンジのネクタイ、南平バッグをもった一期生が現れる。 彼らもチラチラとこちらを気にしているのが遠目にも分かる。 うれしかった。頼もしかった。生徒あっての学校。実感! (昭和60年年4月11日、南平つうしん) 都立南平高等学校高幡校舎(日野潤徳小隣接) 新校舎に植える紫陽花を育てた。 一期生 〔目次へ戻る〕 #
by Yamada_Tatsuaki
| 2012-05-20 08:32
| 高校教育
〔 南平高校開設期余話 〕 ●意外に古い南平の地名 ベッドタウンとして開発の著しい日野・八王子地区のなかで、南平の地名は明治初期の地図に既に見られる。 興味深いことにその地図には北平という地名も記載されている。 ちなみに当時の北平は今の八王子市石川町付近で、現在その地名は使われていない。 日野台地(甲州街道の日野宿がある)から見ると南と北の正反対の方向にいずれも1、2k離れた所に、旧多摩川や浅川の浸食を免れた標高100Mを越す遠目には頂上部が平坦に見える多摩丘陵、および加住丘陵が東西に延びているのが遠望できる。一方が南平、他方を北平とよんでいたのであろう。 当初、高校名が南平と聞いて、ナンペイと呼ぶ生徒がいるだろうな、応援するとき「ミナミダイラ、ファイト!」なんてちょっと言いずらいかななんて心配もした。 ●グラウンドには昔、大きな池があった。 南平のグラウンドは今でこそ平坦であるが、学校ができる前はグラウンドの中央の位置にすり鉢状の大きな池があった。 この池は人工的なもので、かつて東京競馬場の馬場をつくる時、ここで大量の砂を掘りその砂を運んだという。その掘った大穴に水がたまって池になったものらしい。 ちなみにその分厚い砂の層は、地学的には平山砂層と呼ばれる。数百万年前にはこの地に東京湾が深く侵入していた。そして三角州状であったこの地に、旧多摩川によって後背地の関東山地から大量に土砂が運びこまれた。砂の粒子はよく揃っており、優れた建設資材になっている。 ●七宝焼きの校章
ご存知、タマノカナオイとタイサンボクをデザインしたしゃれた校章。これほど繊細でこった校章は今時珍しい。職人気質の業者が精魂傾けて何度も試作して完成にこぎつけた。 ●開校記念日の日付入り幻のネクタイピン 3期生の諸君までしかもっていない代物。現役の南平生に時々欲しい言われる。もう少したてばプレミアがつくかも。 ●雉が遊び、野うさぎが出没した開校当初 南平の本校舎へ移転してしばらくは、南の斜面を野うさぎが徘徊したり、プールの屋根には隣の動物園の雉が羽を休めていたりした。ここは学校ができるまでは彼らの活動域であったに違いない。最近はいずれも姿を見せなくなりさみしい。 ●学力面では都立日野台高等学校を目標にした。 ●ネクタイの不思議な模様 南平ネクタイの模様をして前頭葉だの、ハートに毛が生えたのだの賑やかだが、ネクタイの本場八王子の産で、タマノカンアオイの葉を形どったオリジナルのものである。紺色の校服によく映える。最近、校服を作り替えている学校のネクタイも無地からしゃれた模様のものが増えてきている。 ●混成四部合唱の校歌 現代日本の代表的作曲家桐朋音楽大学学長、三善 晃先生によるの曲。なんと校歌にして混声四部合唱である。昭和60年の夏、軽井沢にこもって作曲されたという。作詞は初代校長沼田俊一先生。 初秋の雨が降る某日、高幡のプレハブ校舎に三善先生が来校され、校歌を直接合唱部の生徒に指導された。「すばらしい」と小さな声ではあるが何度も生徒を励まし、柔和な表情とともに心暖まるご指導が印象的であった。 本校の校歌は、毎年6月に実施される合唱祭に、一年から3年生までの課題曲に指定されている。一年生は入学間もないこともあり、その混声四部合唱の校歌に四苦八苦している。三年生ともなるとさすが、ろうろうと唄い上げる。学年の実力差がはっきりと出る。 この難しいが素晴らしい校歌が、全校生徒が唄うことができるのは、合唱祭のお陰である。もし、合唱祭で課題曲として指定されなければ、この素敵な校歌も宝の持ち腐れになっているだろう。合唱祭が、開設当初から、行事に組み込まれてほんとうによかったと思う。 ちなみに合唱際を含め、文化祭、体育祭等々、開校当初からいずれも第一回〇〇祭と銘打ち、開催した。 (注)三善晃先生は、2013.10、ご逝去。享年80歳。ご冥福をおいのりします。 三善 晃氏(ウイキペディアより) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%99%83 資料 南平高等学校 開設時記録 沿革
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by Yamada_Tatsuaki
| 2012-05-19 10:16
| 高校教育
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